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日々あったことなんかを適当に書いてきます。そんなに頻繁に更新はしないです。 

読書記「本能寺の変 431年目の真実」明智憲三郎著

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このところ読書の冊数も増え、内容整理の為に時々は読書記を残したいと思います。

明智残党狩りの手を逃れた光秀の子孫による一冊。

この手の「〇〇の真実」や「本当は△△は生きていた!」などの本は数知れず。
前から気にはなっていたが、歴史のIfに妄想を掻き立てる程度のものとしてしか考えていなかったので正直胡散臭さがぬぐえずなかなか読む気にはなれなかった。

結論から言うと新たな文章や遺跡の発見に基づく新説ではないが定説に対して既存の文献の矛盾を逆に状況証拠として捉えてストーリーを組み立ててく「歴史操作」という切り口が面白かった。

従来本能寺の変は日頃の恨みつらみが募った光秀が謀反を企て、信長の油断に乗じて兵をあげたというのが良く知られる怒恨説。 この本では一族の長としての重責を担う光秀が個人的な恨み感情で謀反という一大事を決断するわけがないという点から始まる。

 

以下内容のサマリー(ネタバレ)

明智光秀は美濃土岐氏の盟主として土岐一族の再興を悲願、天下を狙ったものではなくあくまでも一族の安寧を願っていた。

織田信長は天下統一の後子の代以降の政権維持に下記のような不安を持っていた。

  →天下を収めた後いずれ各武将に与える恩賞としての領地が不足する

  →一族の求心力を保つため重要エリアは織田一族に与えたい

  →現政権で同盟を結ぶ家康がいずれ息子の代で仇となるリスクがある

◆そして信長は「唐入り構想」と「徳川家康の討伐」という戦略を立てる

  →明に進出して領地を拡大すると共に有力大名を遠方地に移封し国内の安定を図る

  →家康を誘い出し、本能寺で手薄の信長に謀反を仕掛けたという体で殺害、その後一気に三河に兵を送り駿河遠江甲府エリアを平定。

◆この戦略実行の中心人物が当時信長の腹心的立場であった光秀

◆しかし光秀はこれが実行されれば自らの悲願である土岐氏の再興が絶望的となる(大名の移付と唐入りによる戦乱の継続)ことから謀反を決意

◆命を狙われる家康とタッグを組み逆に本能寺にて信長を討つ計画を立てる

本能寺の変実行後、予想外の協力者の離反と、秀吉のリアクションが早かった為あえなく失敗。光秀打ち死

◆秀吉はこの事をおおよそ知ってたのでむしろ機を狙ってた。

◆その後天下統一した秀吉は信長と同じく唐入りを進めるが二の足を踏まぬよう大名国替、検知、刀狩を進め謀反の芽を事前に紡いだ。

◆一方唐入りに対する反発は強く、反対勢力と秀吉とのパイプ役になっていた千利休に秀吉が危機を覚え切腹に追いやる。その後謀反へのトラウマが次第に強くなり結果的に政権が弱体化。家康討伐の機を失いその後豊臣家は滅亡。

◆鳴くまで待とうホトトギスの家康が最終的に天下を平定し江戸幕府を開き260年の平和の世を築く

◆家康が幕府を開く際に力を入れたのが「御恩と奉公」に基づく領地が諸悪の根源として大名家の取りつぶし(江戸期に160以上)と領土の循環によってエネルギーの噴出を抑えた。(幕藩体制

 

以降は私の持論も一部加えて

明治維新はかつて関ヶ原で家康と対峙した旧豊臣方、毛利勢が積年の恨みを晴らす形で派生したもの。

◆したがって明治期以降は秀吉推しとなり「唐入り」が「中国大陸進出」へと姿を変えて近現代の国家政策へとつながる。

◆ちなみに司馬遼太郎の「龍馬がゆく」で坂本龍馬が人気になる以前は豊臣秀吉が一番人気だったという事からしてもこの点はうなずける。

 

また

◆現代における本能寺の変や信長、家康、秀吉の関係性等は秀吉が自身の正当性を宣伝するために本能寺の変の4か月後に書かせ全国に常識として広めた「惟任退治記」(これとうだいじき)がベースになっている。(惟任とは光秀が朝廷から賜った苗字)

 

こまかい部分については説に強引な点も見受けられるが、一般的に知られる恨み説や野望説のような断片を切り取ったものではなく戦国時代という現代の常識では到底理解できない時代の背景と当時の人々の戦略史観で考察するという切り口が歴史を出来事の集合体としてではなく一本の流れとしてダイナミックに捉える。 そういう視点での本だったと思う。

 

以上。